No. 103
詩の原理
形ではなく、心の向き方としての詩
詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。
萩原朔太郎『月に吠える』序、1917
Episodeどういう具合に、うれしいか
萩原朔太郎は、最初の詩集『月に吠える』の序の中ほどで、二つの問いを並べています。
『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何人もたやすくその心理を説明することは出来ない。(中略)そこには音楽と詩があるばかりである。
— 萩原朔太郎『月に吠える』序
序はさらに、水を恐れる病にかかった人の話へ進みます。コップ一杯の水が息もできないほど恐ろしい。その感じを、病を知らない人にどう伝えればいいのか。どんな言葉で説明しても伝わらないだろう。けれど、もしその人に詩人の才があれば、きっと詩を書くにちがいない、と朔太郎は書きます。詩は、言葉で説明できないものまで説明する。詩は言葉以上の言葉である、と。
Origin詩は、ものの側ではなく、見る側にある
それから十年あまりのち、朔太郎は『詩の原理』を書きます。詩とは、いったい何なのか。音の数をそろえれば詩になるのか。彼は、形の決まりからではなく、世界に向かう態度から考えなおしました。
朔太郎は、あらゆる芸術を二つの態度に分けます。感情をもって、温かく世界を見る主観の態度と、感情を退けて、冷静に世界を観察する客観の態度。前者の典型が、時間の中を流れる音楽で、後者の典型が、空間に形をとどめる美術です。詩は「文学としての音楽」であり、小説は「文学としての美術」だ、と。
そのうえで、彼は「詩的」と呼ばれるものを並べてみます。月夜、霧の景色、古い都、遠い異国。けれど古都に住む人は、自分の町をさほど詩的とは感じていない。遠い国の人が夢の国と呼ぶ日本の着物や紙の家も、私たちにはありふれたものだ。水の都ヴェニスの芸術家たちは、ゴンドラを焼いて近代都市を造れと叫んでいる。詩は、ものの中にあるのではない。そう見きわめて、朔太郎は結論を書きます。
詩とは実に主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である。もし生活にイデヤを有し、かつ感情に於て世界を見れば、何物にもあれ、詩を感じさせない対象は一もない。
— 萩原朔太郎『詩の原理』内容論 第九章「詩の本質」
Meaning理由は説明できても、具合は手渡すしかない
説明が答えられるのは「なぜ」の問いです。なぜうれしいのか、なぜ恐ろしいのか。けれど人と人とのあいだで本当に分けあいたいのは、たいてい「どんなふうに」のほうです。そちらは、筋道を立てても届きません。音の運びや像のつらなりで、同じ感じを相手の中に起こすしかない。朔太郎は同じ序で、「リズムは説明ではない。リズムは以心伝心である」と書いています。言葉の調子そのものが、意味より先に、相手の体に届くということです。
見慣れたものが散文に見えるのも、同じところから説明がつきます。ものはそのままで、いつもそこにあるせいで、こちらの見る目が冷えている。朔太郎は、詩の心の本質を「非所有へのあこがれ」、まだ手にしていないものへのあこがれだと言いました。同じ町が、ある人には詩で、ある人には散文になる。詩は、世界に向かう心の向き方の名前です。
So what「どんなふうに」を、一つ添える
何かを伝えるとき、理由を言い終えたら、どんなふうに感じたのかを、たとえを一つ添えて伝える。説明では削られてしまう感じが、そこで相手に渡ります。見慣れたものも、こちらの心の向きを変えれば、詩の側から見えてきます。
Sources
- 萩原朔太郎『月に吠える』1917(序)。青空文庫 aozora.gr.jp/cards/000067/card859.html
- 萩原朔太郎『詩の原理』第一書房, 1928(内容論 第一章「主観と客観」、第二章「音楽と美術」、第九章「詩の本質」)。青空文庫 aozora.gr.jp/cards/000067/card2843.html