No. 10
理入と行入
分かってから動くか、動いて分かるか
夫入道多途、要而言之、不出二種。一是理入、二是行入。
道に入る道筋は多い。けれど要を言えば、二つを出ない。一つは理入、二つは行入。
『菩提達磨略辨大乗入道四行』(『景徳伝灯録』巻三十)
Episode壁に向かって、九年
インドから海を越えて中国へ渡った達磨について、こんな話が伝えられています。都の洛陽に近い山、嵩山の少林寺に身を寄せると、達磨は壁に向かって座り、一日じゅう黙っていた。人々には何をしているのか分からず、壁を観る婆羅門と呼んだ。そこにとどまった年月は、九年に及びました。
ある冬の夜、教えを乞う一人の僧が、雪の降る庭に立ちつづけました。夜が明けるころには、雪は膝を越えていた。達磨は憐れんで、何を求めているのかと問い、こう戒めます。仏たちの道は、長い年月をかけて行じがたいことを行じてきたものだ。小さな徳と軽い心で真の道を望んでも、骨折り損に終わる。それを聞いた僧は、ひそかに刀をとり、自分の左腕を断って師の前に置きました。この僧がのちの慧可です。
Origin理入と、行入
弟子の曇琳が序を付けて伝えた短い書があります。そこでは、道に入る入り口は二つとされます。理から入る道と、行いから入る道です。
理入は、教えを手がかりにして根本をつかみ、誰の中にも同じ本性があると深く信じることです。それが曇ってみえるのは、外から来た塵におおわれているだけ。そう分かったら、壁のように動かずにそこにとどまり、もう文字の教えを追いかけない。壁に向かう達磨の姿は、この理入を、姿にしたものとも読めます。
行入は、四つの行いにまとめられています。苦しいことが起きたら、恨まず、昔の自分の行いが実ったものとして受けとる。うまくいったら、縁がそろっただけだと受けとる。外に何かを求めて走りまわらない。そして、道理にかなったことを、見返りにとらわれずに行う。四つのうち三つまでが、毎日の出来事をどう受けとるかの話です。
得失從緣、心無增減。
得るも失うも縁による。心は、増えも減りもしない。
— 『菩提達磨略辨大乗入道四行』随縁行
Meaning分かってから動くか、動いて分かるか
何かを身につけようとするとき、私たちはつい、先に分かってから動こうとします。理入は、その「分かる」を極めた道に見えます。けれど達磨の理入は、本を読み続けることではありませんでした。教えを手がかりに一度つかんだら、あとは文字を離れ、座ってそこにとどまる。理は、知識として積むものではなく、立つ場所として選ぶものだったのです。
行入は、その反対の側から入ります。分からないまま、毎日起きることに一つずつ応じていく。苦しいとき、うまくいったとき、欲しくなったとき、人に何かを渡すとき。くり返すうちに、ある日ふと、理が腑に落ちる。
二つの入り口は、別々の道ではありません。分かることが行いを支え、行いが分かることを深めていきます。
So what入り口は、二つある
分からないから始められない、と立ちすくむことがあります。反対に、手は動いているのに、なぜやっているのか分からなくなることもあります。
理から入れないなら、行いから入る。いま起きていることを、恨まず、浮かれず、一つ受けとる。行いに迷ったら、手を止めて、自分が立っている理を見つめ直す。どちらから入っても、行き着く場所は同じです。入り口の前で迷っているあいだは、どちらにも入っていません。
Sources
- 道宣『続高僧伝』巻十六「菩提達摩伝」、大正蔵 T50 No.2060、p.551c。二入四行の最も早い記録。CBETA Online
- 道原『景徳伝灯録』巻三十「菩提達磨略辨大乗入道四行(弟子曇琳序)」、大正蔵 T51 No.2076、p.458b–c。序(「此略序所由云爾」)のあとに本文「夫入道多途…」が続く。「得失從緣、心無增減」「有求皆苦、無求乃樂」。CBETA Online
- 同『景徳伝灯録』巻三「菩提達磨」、p.219b–c。「寓止于嵩山少林寺。面壁而坐終日默然…謂之壁觀婆羅門」、雪中に立つ神光(慧可)、「豈以小德小智輕心慢心。欲冀真乘徒勞勤苦」「潛取利刀自斷左臂」(断臂の話はこの景徳伝灯録の版による)、「迄九年」。CBETA Online
- 柳田聖山『達摩の語録 ― 二入四行論』(禅の語録 1)筑摩書房、1969。CiNii
- 雪舟「慧可断臂図」1496、斉年寺蔵