No. 39
空
意味は、関係のあいだで仮に結ばれている
眾因緣生法 我說即是無 亦為是假名 亦是中道義
さまざまな因と縁から生じたものを、わたしは無(空)と説く。それはまた仮の名であり、それがまた中道ということである。
龍樹『中論』観四諦品(鳩摩羅什訳)
Episode空っぽの数
インドの数学者たちは、何もないことを表す数に、シューニャという名をつけました。サンスクリットで「空っぽ」を意味する言葉です。七世紀の天文学者ブラフマグプタは、この空っぽを一つの数として扱い、足しても引いても相手を変えない、という計算の決まりを書き残しました。
同じシューニャという言葉は、仏教の思想の中では「空(くう)」と訳されました。何もない、という意味ではありません。ゼロは、それだけでは何の値も持たないのに、数の並びのどこに置かれるかで、十にも百にもなります。無さがあることで、ほかの数が意味を持つ。数の空っぽと、思想の空は、同じ言葉から生まれています。
Originどちらにも寄らない道
二世紀ごろの南インドの僧、龍樹は、空を思想として練り上げた人です。主著『中論』は、ものごとが他と関わりなく、それ自体で決まった姿を持つ、という考えを、一つずつ崩していきます。あらゆるものは因と縁の重なりから生じる。だから、それだけで成り立つ固定した中身はない。この見方が空です。
龍樹は、冒頭の偈に続けて、こうも書いています。
未曾有一法 不從因緣生 是故一切法 無不是空者
因と縁から生じないものは、一つもない。だから、空でないものは何もない。
— 龍樹『中論』観四諦品
空は、すべてがある、とも、何もない、とも言いません。右にも左にも寄らない。龍樹はそれを中道と呼びました。ものには名前がつき、輪郭があるように見えます。けれどその輪郭は、関係と時間のなかで、いま仮にそう結ばれているだけです。『般若心経』の「色即是空、空即是色」は、形あるものと空が、表と裏のように離れないことを言っています。
Meaning苦が確定するとき
釈迦が最初に説いた教えには、苦の数え方があります。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと。そこに、こう並べられています。
yampicchaṁ na labhati tampi dukkhaṁ
求めて得られないこともまた、苦である。
— 『転法輪経』(相応部 56.11)
求めたものが得られない。その瞬間に、苦が確定します。確定させているのは、求めたものと、いまの自分の意味が、動かないものとして固まっていることです。手に入るはずだった姿、こうあるべきだった自分。その輪郭を本物だと思っているかぎり、得られなかったことは、永遠に苦として残ります。
空は、その輪郭を外そうとする見方です。いまの意味は、関係と時間のなかで、いまそう与えられているだけ。たくさんあった道筋のうちの、一つにすぎません。そう見たとき、苦を感じなければならない理由が、静かに消えていきます。
So what変われる余地
うまくいかなかった仕事、届かなかった言葉。それを「失敗」という固い名前で閉じると、そこから動けなくなります。けれど、その名前もまた、仮に結ばれたものです。関係が変われば、同じ出来事は別の意味を帯びていきます。
空っぽであることは、欠けていることではありません。ゼロが数の並びに置かれて桁をつくるように、固まった中身がないから、ものごとは変わることができます。変わる余地は、いつも空のほうにあります。
Sources
- 龍樹『中論』観四諦品第二十四、鳩摩羅什訳(大正新脩大蔵経 T30, no. 1564, 33b11–14。CBETA)
- 『般若波羅蜜多心経』玄奘訳(大正新脩大蔵経 T08, no. 251, 848c)
- 『転法輪経』Dhammacakkappavattana Sutta(相応部 SN 56.11。SuttaCentral)
- 中村元『龍樹』講談社学術文庫、2002
- 吉田洋一『零の発見 ― 数学の生い立ち』岩波新書、1939