No. 39
間主観
確かさは、人と人のあいだにある
Noli foras ire, in te redi, in interiore homine habitat veritas.
外へ出ていくな。自分自身に帰れ。真理は、人の内側に住んでいる。
Augustinus, De vera religione 39, 72(フッサール『パリ講演』の結び)
Episodeパリの二晩
七十歳を前にしたエドムント・フッサールは、ある冬、パリのソルボンヌで二晩にわたって講演をしました。会場は、デカルトの名を冠した講堂でした。題は「超越論的現象学入門」。ドイツ語で語られたこの講演は、のちに書き広げられ、二年後にフランス語で『デカルト的省察』として出版されます。

フッサールは、デカルトにならって、いったん世界を確かなものとして受けとるのをやめ、自分の意識の内側に帰るところから始めました。講演は、冒頭のアウグスティヌスの言葉で結ばれます。外へ出ていくな、自分に帰れ。
けれど、その結びにたどり着く前に、二晩目のフッサールが長く語ったのは、自分の内側に降りていった先で出会う、他者のことでした。
ich erfahre sie als diese selbe Welt, die ich erfahre, auch erfahrend, desgleichen als mich erfahrend wie ich sie erfahre
私は他の人たちを、私が経験しているこの同じ世界を、同じように経験している者として経験する。私が彼らを経験するように、私を経験している者として。
— Edmund Husserl, Pariser Vorträge, 1929
Origin主観と主観のあいだ
一人ひとりは、自分の意識の内側からしか世界に触れられません。それなのに世界は、私だけのものとしてではなく、誰にとってもそこにあり、誰でも近づける世界として経験されている。それはなぜか。フッサールは、この問いを考え続けました。
答えは、私の内側を掘り下げた先、そこに映る他者との重なりにありました。私は他者を、私自身の中で、私と同じ世界を経験している者として経験する。確かさは、その重なりから立ち上がる。フッサールはその重なりを、ライプニッツにならって、私というモナドに、ほかのモナドが映る、とも言い表しました。主観と主観のあいだ。それが間主観、あるいは間主観性と呼ばれるものです。
Meaning内側の奥に、他者がいる
確かさには、自分だけが確かだと思う主観と、誰が見ても動かない客観の、二つしかないように思えます。間主観は、そのあいだにある三つめの確かさです。言葉の意味も、ものの値打ちも、よいデザインの手ざわりも、一人では決まらず、天から降ってくるのでもありません。人と人が見え方を持ち寄り、うなずきあったところに、ようやく形をとります。
フッサールの歩みが示しているのは、自分の内側を深く掘っていくと、その底で他者に行き当たる、ということです。私が見ている世界には、はじめから、同じ世界を見ている誰かが織りこまれている。だから一人で確かめきれないことは、思いこみでも、ただの多数決でもなく、話し合いによって少しずつ確かになり、変わっていくこともできます。
So what見え方を、持ち寄る
自分の見方が正しいと言い張っても、確かさは生まれません。誰かの見方に黙って合わせても、やはり生まれません。
自分には何がどう見えているかを差し出し、相手には何がどう見えているかを聞く。その重なりを、一緒に確かめていく。内側に帰ることと、他者に開くことは、同じ一本の道の上にあります。確かな世界は、そうして誰かと一緒に編まれていきます。
Sources
- Edmund Husserl, Pariser Vorträge(1929 年 2 月 23 日・25 日、ソルボンヌ)。Husserliana I, 1950 所収(ドイツ語本文: Bibliotheca Augustana)
- Edmund Husserl, Cartesianische Meditationen(第五省察)。仏訳 1931、ドイツ語原文の刊行 1950。邦訳 フッサール『デカルト的省察』浜渦辰二訳、岩波文庫
- A. D. Smith, Routledge Philosophy GuideBook to Husserl and the Cartesian Meditations, Routledge, 2003
- Dan Zahavi, “Edmund Husserl,” Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2025(SEP)
- Augustinus, De vera religione 39, 72