No. 37
一即多
一つの中に、すべてが映っている
一中一切多中一 一即一切多即一
一つの中にすべてがあり、多くの中に一つがある。一つはすなわちすべてであり、多くはすなわち一つである。
義湘「法性偈」(『華厳一乗法界図』)
Episode十枚の鏡と、一本の灯
七世紀の終わり、洛陽の都で、法蔵という僧が女帝の則天武后に『華厳経』を講じていました。網の結び目の珠が互いを映しあう「帝網」の教えにさしかかると、武后は分からずに迷ってしまいます。法蔵は、宮殿を守る金の獅子の像を指さして、たとえを話しました。金という一つの素材が、獅子という全体の形になり、その目にも耳にも毛の一本にも、獅子のすべてが宿っている。この話はのちに『金師子章』としてまとめられます。
それでも分からない学び手のために、法蔵はもう一つ工夫をしました。宋の時代に編まれた僧の伝記に、その様子が残っています。
取鑑十面,八方安排,上下各一,相去一丈餘,面面相對,中安一佛像,燃一炬以照之,互影交光。
鏡を十枚とり、八方に並べ、上と下にも一枚ずつ置いた。互いに一丈あまり離し、向かいあわせにして、真ん中に仏像を一体すえ、灯を一本ともして照らすと、映り合う影と光が交わった。
— 賛寧ほか『宋高僧伝』巻五「法蔵伝」
一体の仏と一本の灯が、どの鏡の中にも映り、その映った像がまた別の鏡に映りこんで、果てしなく重なっていく。学び手たちは、それを見て、世界と世界が限りなく入りこみあうということの意味を悟ったといいます。
Origin一は多であり、多は一である
華厳の教えは、この有り様を帝釈天の網にたとえます。果てしなく広い網の結び目の一つひとつに珠が結わえてあり、どの珠にも、ほかのすべての珠が映っている。鏡の部屋は、その網を目の前に立ててみせたものでした。一つのものは、ほかのすべてとつながりあって、はじめてそこにある。だから一つの中に全体があり、全体は一つひとつの中にある。法蔵と同じ師のもとで学んだ新羅の義湘は、この見方を冒頭の二句にまとめました。
のちに西田幾多郎は、この言葉を自分の哲学の言葉として使います。
多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。
— 西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」1939
個と全体は、どちらかがどちらかに呑みこまれるのではありません。打ち消しあうように見えながら、同時に成り立ち、互いをつくりあっている。
Meaning一人の中に、全体が映る
人が集まって何かをつくるとき、全体と一人ひとりは、ときに引っぱりあいます。全体のために個を抑えるか、個のために全体をゆるめるか。けれど鏡の部屋に立つと、その二択はほどけていきます。真ん中の灯を一本消せば、すべての鏡が暗くなる。一枚の鏡を曇らせれば、ほかの鏡に映る像も欠ける。
一人の仕事ぶりには、その場の全体が映っています。そして全体の姿は、一人ひとりのふるまいの重なりでしかありません。人が環境をつくり、環境がまた新しい人をつくる。どちらから手をつけても、もう片方に届いています。
So what目の前の一つから
大きなものを前にすると、全体を一度に動かさなければと焦ります。けれど目の前の一つには、もう全体が映りこんでいます。
一つの仕事、一つの会話、一つの言葉を丁寧に扱う。小さく閉じこもるように見えて、その手は網の全体に触れています。法蔵がともした灯は一本でした。それでも、十枚の鏡のすべてが明るくなったのです。