No. 76
越境
深さを重ねて、境目に立つ
Episodeエンジニアが、デザインを学びに行く
機械をつくる工学を学んでいた一人の青年が、あるとき、ものの仕組みだけでは足りないと感じはじめました。どれだけ性能のよい機械をつくっても、人がそれを使いたいと思わなければ、暮らしの中には入っていかない。彼は海を渡り、ロンドンでデザインを学びなおします。
のちにデザインとエンジニアリングを行き来する事務所を率いることになる田川欣哉です。二つの世界のあいだを越えたことで、彼には、どちらか一方にいたときには見えなかったものが見えるようになりました。技術と人とのあいだにある、まだ誰も手をつけていない、広い境目の地帯です。
Originビジネス、テクノロジー、クリエイティビティ
田川は『イノベーション・スキルセット』で、新しいものを生みだすには三つの領域が要ると書きました。ビジネス、テクノロジー、クリエイティビティ。頭文字をとって、BTC です。そして、この三つのあいだを越えて動ける人や組織こそが、これからの時代に求められる、と。
こうした複雑な課題を解くためには、従来の経営にみられる要素分解的なアプローチではなく、分野越境型の総力戦が必要となります。
田川欣哉『イノベーション・スキルセット』
一つの専門を深く掘るだけでは、いまの複雑な問題は解けない。それぞれの専門のあいだに立ちはだかる垣根を越えて、知恵を組み合わせる必要がある。田川はそれを、総力戦と呼びました。
Meaning境界線の、潤滑油
田川は、デザインの役割を、境目に置いて考えます。
デザインは、テクノロジーと人間のあいだをつなぎ込む、境界線の潤滑油のようなものです。
田川欣哉『イノベーション・スキルセット』
どれほど優れた技術も、人との境目でつかえてしまえば、暮らしの中には入っていけません。境目をなめらかにする人がいて、はじめて技術は人の手に届く。そしてそのためには、専門と専門のあいだにそびえる高い垣根を取り払い、思いがけない組み合わせが起きやすい状況をつくることが要る、と彼は書きます。新しいものは、ばらばらだったものが、境目で出会うところから生まれるからです。
Meaning片足を残して、片足を踏み出す
では、どうすれば越境できるのか。いきなりすべてを捨てて、見知らぬ領域へ飛びこむ必要はありません。田川は、片足を自分の得意な領域に置いたまま、もう片足を新しい分野へ踏み出す、という進み方を勧めています。得意なところで足場を保ちながら、不得意なところで学ぶ。
学びの研究でも、慣れた場所と慣れない場所を行き来することが、人を深く育てると言われます。慣れない場所で感じる戸惑いが、当たり前だと思っていた前提を揺さぶるからです。そして、そこで得たものを元の場所へ持ち帰ったとき、元の場所にもまた、小さな変化が起きていきます。
Meaning薄く広くでは、越えられない
ただし、越境は、あちこちを少しずつかじることではありません。どの領域も浅く触れただけでは、それぞれの世界の人と、同じ言葉で話すことができない。垣根の手前で愛想よく手を振っているだけで、向こう側へは入っていけないのです。
越境する人に要るのは、行き来するそれぞれの領域で、そこに住む人から一目置かれるくらいの深さです。技術を深く知っているから、技術者と本気で議論できる。表現を深く知っているから、つくり手の迷いが分かる。深さを持った領域が二つ、三つと重なったとき、その重なりは、ほかの誰にも立てない場所になります。
ある教育者は、一つの分野で一万時間をかければ百人に一人の存在になれる、それを三つの分野で重ねれば百万人に一人になれる、と言いました。大事なのは、数を増やすことではなく、一つひとつを、きちんと深くすることです。広さは、深さを重ねた結果としてついてくるのです。
So what境目に、立ってみる
一つの専門に深く根を張ることは、大切なことです。けれど、根を張った場所の外には、自分の言葉が通じない、広い境目の地帯が広がっています。
片足は今いる場所に深く根を張ったまま、もう片足を、その境目へ踏み出してみる。そして踏み出した先でも、また深く根を張る。技術と人のあいだ、仕事と仕事のあいだ、専門と専門のあいだ。越境する人は、そこで垣根の潤滑油になり、まだ誰も見たことのない組み合わせを生みだす。新しいものは、いつも境目から始まるのだと思います。
Sources
- 田川欣哉『イノベーション・スキルセット ― 世界が求めるBTC型人材とその手引き』大和書房、2019。引用は書評 bookbang.jp に載る本文による
- 藤原和博がくり返し語る「100万分の1の希少性」の考え
- 石山恒貴『越境的学習のメカニズム』福村出版、2018