No. 09

無事是貴人

ぶじこれきにん

探しに走る心が止むところ

無事是貴人、但莫造作、秖是平常。

無事これ貴人。ただ造作することなかれ、ただこれ平常なり。

『臨済録』示衆

Episode鏡の中の顔を愛した男

古い経典に、こんな男の話があります。名は演若達多。ある朝、鏡で自分の顔を映してみると、鏡の中の頭には眉も目もはっきり見える。ところが自分の頭を見ようとしても、顔が見えない。これは化け物に取り憑かれたにちがいない。男はそう思い込み、わけもなく町を走りだしました。

頭は、はじめから肩の上にありました。経典は、この男について、こう説きます。

忽然狂歇、頭非外得。

たちまち狂いが止む。頭は、外から得たものではない。

— 『首楞厳経』巻四

Origin唐の禅僧が、探しに走る弟子を叱った

唐の時代の禅僧、臨済は、この話を修行者たちへの説法に引きました。学びたい、仏に近づきたいと、あちこちの師を訪ね歩く若い僧たちに向かって、こう言います。昔の人も言っている。演若達多は頭を失くしたと思い込んだ。探し求める心が止んだところが、そのまま無事なのだ、と。

版本に刷られた臨済義玄の肖像。僧衣の人物が座し、上部に漢文の賛が添えられている。
臨済義玄の肖像。守一編『佛祖統系道影』(1880)より。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

その少しあとで、臨済は冒頭の一句を語ります。無事こそが尊い人だ。わざわざこしらえるな。ただふだんのままでいよ。別の示衆では、ふだんのままとは何かを、拍子抜けするほど具体的に言いました。

佛法無用功處、秖是平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥。

仏法には、骨を折るところがない。ただふだんのまま、事もなく、用を足し、服を着て、飯を食い、疲れたら横になる。

— 『臨済録』示衆

Meaning「事が無い」ではなく、「求める事が無い」

ふだんの「無事」は、事故や病気がないことを指します。けれど臨済の「事」は、出来事ではなく、外に向かって探し求める営みのことです。仏を外に探さず、わざわざこしらえず、ふだんのままでいる。それが臨済の言う平常です。

演若達多の話で大切なのは、男が失くしたと思ったものが、鏡の中では見えていたことです。映ったものは見えるのに、それを映している自分の頭は見えない。だから外に探しに行く。探せば探すほど、探している自分からは遠ざかります。走るのをやめることでしか、見つからないものがあるのです。

ただし、ふだんのままとは、ぼんやり過ごすことではありません。臨済は同じ説法の中で、「随処に主と作れば、立処皆な真なり」とも言いました。どこにいても、その場の主人になれ。そうすれば、立っているところがそのまま真実になる。外に探しに行かない人は、いま立っている場所に、まるごと居るのです。

So what集める手も、探しに走る足になる

言葉を集め、本を足し、新しいやり方を探す。どれも、度を越せば鏡の中の顔を追いかける走りになります。集める手が止まらないときは、もう持っている言葉で、いまの仕事を一つ片づける。

Sources

  1. 『鎮州臨濟慧照禪師語錄』慧然集、大正蔵 T47 No.1985。「無事是貴人…」p.497c27、「演若達多失却頭、求心歇處即無事」(臨済が「古人云」として引く句)p.497c19、「佛法無用功處…困來即臥」「隨處作主,立處皆真」p.498a17–19。CBETA Online。原文の表記は「秖是平常」(「祇」ではなく「秖」)
  2. 『大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經』巻四、般剌蜜帝訳、大正蔵 T19 No.945、p.121b。「室羅城中演若達多、忽於晨朝以鏡照面、愛鏡中頭眉目可見、瞋責己頭不見面目、以為魑魅、無狀狂走」「忽然狂歇、頭非外得」。CBETA Online
  3. 入矢義高訳注『臨済録』岩波文庫、1989。CiNii